民主主義とは

 

[民主主義]

 

平成27年9月19日安保関連法の成立の頃より「民主主義」についての論議が盛んになり、かなりの数の民主主義をめぐる書籍が出版されている。

 

そこで「民主主義」とは何かを考えてみたい。

 

我々の中学高校の頃は、民主主義とは多数決だと教えられた。いまでも最終的には多数決により決定するのが通例である。

 

しかし民主主義を単に多数決だと言いきってしまうことには、多くの異論がありそうである。

 

有名なリンカーンの言葉である「人民の、人民による、人民のための政治」(ゲティスバーグ演説)は、民主主義を表現したものであると言ってよいのだがそうだとすると、民主主義は多数決に尽きるものではないことになる。

 

そこで、世の人々は、民主主義をどのようにとらえているのかを見てみたいと思う。

 

 大学時代に教科書として読んだ、憲法学者である宮沢俊義(以下すべて敬称略)の「憲法Ⅱ新版(法律学全集 有斐閣)」は、人権宣言における人権が、近代民主主義の理念の本質的発展の表現だとし、「個人の尊厳から出発する民主主義は、まず国家が個人の自由を尊重すべきことを要求する。」という。個人の自由の尊重は必然的に国家権力の基礎が国民であり(国民主権主義)、国家権力が国民の参与により行使されるべきだという主張を伴う。これが狭い意味の民主主義であるとする。

 

 同じく憲法学者の樋口陽一は、「加藤周一と丸山眞男」(平凡社)において評論家加藤周一の考える「民主主義」を「個人の尊厳と平等の原則の上に考えられる社会制度」と捉えているとして同意し、「加藤にとっての民主主義は選挙による多数者の権力運用という次元を越えた「立憲主義」でなければならないことが明示されている。」としている。

 

 そして、宇野重規「民主主義の作り方」は、「民主主義」を、自分たちの社会の問題を自分たちで考え、自分達の力で解決して行くこと、社会を変えて行くことであるとする。そして、「民主的社会」とは、一人一人の個人が様々な実験をし、経験を深めて行くことを許容する社会である、としている。

 

 さらに、政治学者の藤原帰一(時事小言、朝日新聞2016.8.24)も民主主義は要するに多数決のことだということに対し疑問を呈している。

 

民主主義と多数決を同じものにすれば、どんな問題が発生するのか。あえて答えるなら多数決だけの民主主義から取り残されるのはマイノリティの問題だと思うという。

 

政治社会の決定が多数決によって行われ、その多数決が多数派の考えばかりを反映するなら、少数派が迫害の排除を求めても成果は期待できない。制度によって解決が出来ないのであれば、力に訴える人も生まれてしまう。多数決だけに頼る民主主義だけでは多数派と少数派が共存する社会をつくることは難しい。

 

 現代の民主主義は自由主義を源流として、そこに民主政治という統治の仕組みが加わったものとしてとらえることが出来る(森政稔:「変貌する民主主義」)。もし民主主義が政治権力を多数派の手に委ねるだけのものであるなら、民主主義は独裁への途を開くことになりかねない。民主政治の前提は多数派と少数派の別を問わない自由な公共社会である。いま民主主義は、自由な公共社会における統治の仕組みではなく、多数派が少数派を排除する制度の別名に変わろうとしている。このように言って現状をいわば批判し、憂いてもいる。

 

 さて我々の憲法にもリンカーンと同様、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。」という規定がある(前文)。

 

さて民主主義とはどんなものであろうか。

 

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